末路

結果こうなった。チラシの裏の読書感想文。

うつ人生の作り方

今回読んだ本:クスリに頼らなくても「うつ」は治る/泉谷閑示

 

頭の支配によって、心=身体を押さえつけてきた人生だった。

小学校に上がりたてのころ、上級生からいじめられた。悔しくてどうしようもなかったが自分が出した答えは「あえていじられキャラで行く事」。いじめられる事はなくなった。あれは、いじられる事で逃げざるを得なかった自分の弱さであり、嫌な状況を我慢してやり過ごすという自分の強さでもあった。ただ、その強さが後々自分を苦しめる事になる。

学級委員や生徒会役員には率先してやってきた。ただ、一番最初は他薦だった。小学校高学年になり、クラスから児童会長を選出する時期が来た。誰かが先生に「どういう人が児童会長になるべきなんですか?」と聞いた。先生はいくつか大人の言葉で児童会長になる人物の条件を言い、最後に「全体の雰囲気を明るくする、おもしろい奴」といった。それを聞いて、クラスの全員が私を指差した。

私は決して面白かった訳ではない。数人の仲間で面白い事をするのは好きだった。お調子者だった。はたから見ていた人間はいじられキャラに徹する自分を面白いやつだと思ったのだろう。無責任にも先生のその一言で、私に決まった。

嫌がる私に対して教師はこっそりと当時私が好きだった人物(なんで知っていたかは知らないが)を生徒会に入れるから児童会長をやってくれないかと言ってきた。子供ながら非常に卑怯な手を使うやつだと思った反面、大人から懇願される経験は初めてだったので、ここでも我慢をし、引き受けた。

その後、
両親や教師は児童会長になった自分を褒め称える。誇りに思うような態度をとる。そういう役職に就く事が『良い行い』であるというように刷り込まれてきたのだ。褒めてくれる人たちの顔色を伺い続け、ただただ自分の心=身体に蓋をして。その間、同級生たちは自分を見つめ、努力をしていった。自分は、ただただ与えられた役職を全う(積極的に生産的な活動をする訳でもなく)する事が目的になり、努力らしい努力もせず(正しい努力の仕方も知らず)、周りが担ぐ神輿に乗り、ただなんとなく流されてきた。


その頃から強く思っていた事がある。「昨日までの自分は大嫌い、今日今の自分がベストであるべきだ」何かで刷り込まれたのか、誰かに言われたのか、昨日の失敗に対する言い訳として言っていたのか、今となっては覚えていないが
そういう思いで生きていた。周りの顔色を伺いベストを尽くすほどの努力もしない結果、自己愛不全に陥っていった。

自分を嫌いになる必要はない。毎日の積み重ねが自分であり、今日のこの悩みも含めて自分なのだ。

誰かにアピールしなくていい。見せかけではない、正しい努力をするのみなのだ。